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| Re:ひとこと…おじゃまします | ||
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さんさん、こんにちは。 一言といわず、もっと語ってくださいませ。^^) 『鉛の卵』は私の一番好きな安部作品なので、取り上げてもらえるとうれしいです。しかし、緑色人とどれい族という、明確な対立物の中に現れた古代人が受ける災難は、ストーリーとしてとても面白いです。そして、私は欲望をキーワードにして読解しました。当時の私にとっては、それがピンときたんです。 また、安部公房全集8巻に、ラジオドラマ版「鉛の卵」が収録されています。ラストが、小説とは違った感じなので、こちらも一読されることをお薦めします。 ーーー引用開始ーーー あの話のテーマは、人間とは何かだと私は思います。 ーーー引用終了ーーー 難しい問題ですね。知的生命体が世界にひとつしかいないために、眠っている問題というのが存在しているのでしょうね。 ーーー引用開始ーーー 三種類の人類がそれぞれ自分こそが人間だという、我々=人間というものが本当に正しい認識なのかそれにつきると思うのですが。 ーーー引用終了ーーー さんさんの読解をもっと詳しく聞きたいです。 ところで、「三種類の人類がそれぞれ自分こそが人間だという」は、文法的にどこにかかっているのでしょうか?それと、どういう意味で「人類」「人間」という言葉を使われてますか? 私の場合、古代人・緑色人・どれい族という三者は、生物学的には全て人類であり人間であると思っています。(緑色人は、手術によって、自ら変化させた種ですが) 主人公である古代人は、歴史的遺物でしかなく、傍観者でしかない。そして、同時代に住む緑色人とどれい族は、お互いに相手を自分の下位にいると思い合いながら、奇妙な共存関係築いている。(文明的・技術的優位は、どれい族にあるが) さんさんのいわれる「我々=人間というものが本当に正しい認識なのか」というのが、まだよくわからないのですが、読み返してみて、緑色人とどれい族は、古代人を通して自分たちの正統性を競っていたと読めることに気づきました。 緑色人について、以下のような記述があります。 ーーー『鉛の卵』から引用開始ーーー ただ、その古代人が、はたしてわれわれ同様の人間的な存在であるか、それとも、どれい族のごとき存在にすぎないものかという点になると、これだけはあまり変化がなかった。それは古代人が、現代人ほどの知性や文明は持ち合わせていないにしても、その本性においては、やはり自分たちに近いものであることを、おのれの正統性を主張するためにも、まず前提として認めざるをえなかったからである。 ーーー引用終了ーーー 一方、正統な子孫であるどれい族においても、 ーーー『鉛の卵』から引用開始ーーー 「ええ、テレビでずっと観察していましたよ。古代人の植物人に対する反応をみるのは、人類の発達史をしらべるうえに、非常に役立つことなんだそうです。あなたの中の、植物因子というか、植物化傾向というか・・・・・・」 ーーー引用終了ーーー といったように、自分たちが本物の現代人と言いながら、古代人と緑色人との間に親近性がないかの観察も欠かさない。 結局、古代人は、正統性議論の材料にされてしまったという読み方も出来るかと思います。 さんさんは、どう読まれていますか? | ||
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